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山口県美東(みとう)町に長登銅山跡がある。その銅山で課役に服していた国人(くにと)の物語が、この「国銅」である。 長登銅山の説明は、以下のようである。 「昔、奈良の大仏に銅を貢納したので、奈良登りがなまって長登になった」という言い伝えがあります。 東大寺大仏の銅を掘り、それを棹銅として都へ運ぶ。主人公の国人は、まずこの鉱山で課役に服し、そしてその後都へ送られ、大仏造営の任につく。 記されているすべての労働が重労働であり、すべての生活が貧しく、厳しい。まさに庶民が、この小説の主人公である。 労働のなかで命を落とす者もいる。あまりの苦役に逃げ出す者もいる。しかし、国人は逃げない。国人は誠心誠意仕事に打ち込み、周囲の労働者や自らと関わりをもった者に対しても、誠心誠意尽くす。 そのような国人を支えた精神は、国人の生得的な感覚(性格)を基礎にしながらも、銅山の近くにある榧葉山(かやばやま)の岩壁に仏を彫り続ける景信という僧から教えられる文字、仏教(「知」)によってかたちづくられたものであろう。 国人は、都へ送られる15人の「仕丁」の一員として都にいくが、課役を終え故郷にたどり着くことができた者は国人一人であった。15人それぞれの生活は記されていないが、国人のみが「豊かな」生活を送ることができた。もちろんこの「豊かな」というのは、物質的な「豊かさ」ではない。その「豊かさ」は「知」によってもたらされた。 帚木の小説はどれも知的である。主人公・国人も知的であるが故に、重労働のなかでも、厳しく貧しい生活であっても、「豊かに」生きることができている。帚木は、庶民に知的に生きることを示唆しているのではないかとも思ってしまう。 読み終えて、静かな感動がある。 また、ところどころに記される釈迦の教え、漢詩とその類のものは、それぞれに味わい深い。 特に『詩経』の下の一節が出てきたときには驚いた。これは高橋和己の小説、『我が心は石にあらず』の扉に記されていたものである。 我心匪石,不可轉也。我心匪席,不可卷也。威儀棣棣,不可選也。(邶風) 他にも、 「たとえ、ひもじい思い、きつい思いをしても、二本足で立ち、自分の手でものを食い、目を開けてものを見るまでは生きるのが、一生というものだ」(下巻、123頁) 「三のなかに一が含まれ、十のなかに三もある。従って、十も一であり、一も十だという。そうするとあらゆるものがつながって、別々だとは言えなくなる。善のなかにも悪があり、悪のなかにも善が入り込んでいる。それが本来の万物の姿なのだ」(下巻、425頁)というように、 「知」が、自らの生を考え、また豊かにさせるための材料を与えてくれるのである。 私は、帚木蓬生の小説は、ほとんど読んでいる。小説の舞台に足を運ぶこともある。山口県美東町にも行きたくなった。 【補】 私の知人も山口県によく行くが、この美東町のことは知っているだろうか。何でも最近九州からの帰りに奈良に立ち寄ったそうであるが、奈良の大仏の銅が美東町産出であったことをしっていたのであろうか。 [補]山口県では、この話は有名らしい。山口県史資料編(考古2)でも、大きく取り上げているようだ。またgoogleで検索するとたくさんヒットする。知らぬは私のみだったのかもしれない。とすると、私の知人は「無知なヤツ」だと笑っているのかもしれない。 『読売』でも、取り上げているので紹介する。 「長登銅山は奈良の大仏や皇朝十二銭の原料を産出した律令国家直営の銅山として知られ、標高346メートルの榧(かや)ヶ葉山に採鉱跡、東の大切谷に精錬遺構が広がる。町教委の発掘調査によると、8世紀初頭に始まる製銅は10世紀半ばに1度廃絶するが、谷入り口の北側で、14世紀末〜15世紀前半の小規模な精錬遺構が出土している。」 |
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