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zoom RSS 【東京新聞・社説】  『私』でなく『公』の意識を

<<   作成日時 : 2007/01/01 00:01   >>

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 昨年、「東京新聞」の社説を多く掲げた。それは内容的に説得力があり、まっとうな議論をしようとしているからだ。もちろんすべてではない。しかし、「東京」には、所与の現実に真剣に対座しようとしている姿勢がある。批判的精神としっかりした主張があってはじめて社説といえるが、「ブロック紙」ではあるが「東京」は、当地で見られる他の全国紙ならびに県紙よりも格調の高い議論を展開している。
 私は、同社のHP上で読めなくなることがもったいないので、ここに掲げさせていただいている。

 今回の社説も考えさせられるテーマである。「公」をどう捉えるか、という問題である。政府がだしてくる「公」ならびに「公共」は、すべてが「国家的公共性」へと収斂させる内容をもっている。政府や政府よりのイデオローグは、結論的には、国民の中に「公共性」がなくなっている、それを回復させるには「国家的公共性」を構築しなければならないのだ、という主張をする。
 最近「公共性」が各所で論じられている。東大出版会などは、「公共性」に関するシリーズものまで刊行しているほどだ。そこでは「公共性」が豊かに論じられてはいる。しかし、教育基本法「改正」案などをみると、その豊かな議論はまったく無視され、「国家的公共性」のみが居丈高に自らを主張している。

 私たちは、本来豊かであるべき「公」の概念を「国家的公共性」に収斂させない努力をしていかなければならない。さもないと、社会が窒息してしまう。「国家的公共性」の一人舞台にしてしまうと、異質なものが出会う空間が閉ざされてしまう。異質なものとの出会いこそが、人間を豊かにし、社会を豊饒にする。

 この社説は、「公」というものを考える材料になる。少し付け加えておくと、「国家的公共性」を主張する者こそ、「公」より「私」を優先する行動をとるのである。

 
二〇〇六年が暮れます。振り返れば、あちこちで「私(たち)さえ良ければいい」という自己中心主義が目立つ年でした。あらためて「私」と「公」を考えます。

 「賢い主婦はスーパーで手前に並んでいる古い牛乳を買う」

 日本新聞協会が募集した「新聞広告クリエーティブコンテスト」の最優秀賞に選ばれた作品「エコ買い」の惹句(じゃっく)です。牛乳パックに記したこの言葉の横に説明書きがあります。

 <自宅の冷蔵庫では古い牛乳から飲んでいるのに、スーパーでは新しい牛乳を買っていませんか? 新しいのから売れていくと、そのぶん古い牛乳は売れ残ってしまいます>

■エゴからエコ買いへ

 はっとする提案が続きます。

 <日本では毎日約2000万人分の食料が、賞味期限切れなどの理由で棄(す)てられています。できるだけ売り場の古い牛乳を買いましょう>

 審査委員の一人が「商品棚の奥にある新しい商品を取る行為は、私もしていると罪悪感を持った。自分さえ良ければいいというエゴ」と語り、エゴでなくエコ買いをという生活者の視点を高く評価しました。

 もちろん、反論はあるでしょう。でも、ここで考えたいのは「自分さえ良ければいい」という意識です。多くの人たちが社会や公共の問題を遠ざけ、狭い領域にしか関心を持たなくなったという風潮です。

 電車の中で足を投げ出して座ったり、携帯電話を使ったりする姿はもう日常茶飯です。図書館で借りた本のページや写真を切り抜いたりする被害も増えたといいます。それぞれ電車内や貸し出し本の公共性を無視する自分勝手です。

 拝金主義という世相の反映がライブドアと村上ファンドの事件です。「人の心は金で買える」。堀江貴文社長(当時)は言い放ちました。

 岐阜県庁の裏金問題や、福島、和歌山、宮崎の三県知事が逮捕された官製談合事件も、公金意識に欠けた自分本位があらわでした。

 会社の利益になるなら何をやってもいいというモラルハザード(倫理観の欠如)も目に余りました。ガス機器メーカー「パロマ」の湯沸かし器をはじめ、エレベーターやシュレッダーなどの不具合が発覚し、製品の安全性を軽視した死傷事故が相次いだのはその例でしょう。保険業界の保険金不払い、証券大手の不正決算も記憶に新しいところです。

■「そろばん」と「論語」

 日本資本主義の父と言われる渋沢栄一の言葉に「右手にそろばん、左手に論語」があります。経営者は金勘定だけではなく、道徳や倫理を考えよ、との教えです。

 現代にも十分に通用する教訓ですが、今は「右手にパソコン、左手に経済誌」でしょうか。迅速大量の情報を駆使して、効率よく収益を上げる市場原理が支配しているのです。

 損得勘定は、教育界でも見られました。高校の単位履修漏れで「不公平」が問題になったのです。

 必修教科を履修した生徒が「損をしない」ように、受験用に別教科を学んだ生徒が「得をしない」ようにというのですが、情けない話ではありませんか。損得でなく高校教育のあり方こそ議論すべきでしょう。

 「楽しければいい」「私が困らなければいい」。公の領域にはかかわりたくないという、そんな人たちの意識の裏に挫折感や絶望感を見る識者もいます。自分一人が公に関与しても何が変わるのか、という感覚です。政治に対する無力感です。

 でも、社会からの引きこもりは、参加が基本の民主主義の危機につながります。戦前の国家統制による「滅私奉公」はごめんですが、「滅公奉私」も危険な道です。

 一方で、市民が安心して暮らすための仕組みが壊れかかっています。高齢者が生きるため空き缶を拾い集める姿は、社会保障の現場への負担強化がもたらした厳しい現実の一つでしょう。

 さらに、家庭や家族の役割低下、教育の混乱、地域コミュニティーの衰退、雇用制度の変化など、かつて世界に誇った日本的システムがうまく機能しなくなっています。

 換言すれば、若者たちが仕事に就き、結婚して、子どもを育てていく社会の再生産の仕組みが大きく揺らいでいるのです。出生率低迷の原因の一つは将来への不安です。加えて「勝ち組」「負け組」の格差が閉塞(へいそく)感を増幅しています。

■ほころぶ安全ネット

 日本の社会が平等、公平重視から競争、効率優先に変わり、貧困や失業、病気などさまざまなリスクを直接個人に負わせる構造に変質しかけているようです。「小さな政府」政策や規制緩和などの“改革”で、社会保険や補助制度といった安全ネットがほころび始めたからです。

 こういう世の中でいいのですか。「私」中心の生き方は、リスクの個人化と重なって、「私」へのしっぺ返しを招きかねません。社会全体の幸福を考える、新しい「公」の創造と参加が求められます。今年の漢字に選ばれた「命」は、地域と人が支え合ってこそ守られ、輝きます。




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