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zoom RSS ジャーナリズムの現状

<<   作成日時 : 2012/03/29 08:58   >>

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 最近ボクは、新聞やテレビのことをジャーナリズムとは呼ばない。ジャーナリズムとは、そこに批判的精神の存在が含意されているからだ。ところが、原発報道に見られるように、テレビ・新聞は、原子力推進側の流す記事をたれ流すだけ。これは原発報道だけではなく、こういう状況になってから、かなりの年月が経つ。だから「マス・ゴミ」とも呼ばれるのである。

 さて今日、なかなか気骨のある、現状にきわめて批判的な、同時に建設的な記事を見つけた。それを掲載させてもらう。『朝日新聞』の『ジャーナリズム』に載せられたものだ。書いたのは、水島宏明(みずしま・ひろあき)氏。略歴は、「民放キー局で解説委員兼ドキュメンタリーディレクター。1957年生まれ。主な番組に「母さんが死んだ」「ネットカフェ難民」。著書に『ネットカフェ難民と貧困ニッポン』など。」



  「現場」に行かないテレビ記者 サラリーマン化する報道現場

 
いつからだろう? こんな会話を周りにいる若手記者と交わすようになったのは―。

 僕「昨日、取材に行った?」

 若手「いいえ……」

 僕「どうして? 結構、主立った人たちが来ていたのに」

 若手「昨日はニュースの枠がないとデスクに言われて……」

 僕「先のことを考えると取材しなくていいの?」

 若手「休日出勤になるので。他の記者も目いっぱいで……」

 テーマは原発、労働、貧困、教育、環境、女性など様々だが、行けばネタや人脈開拓につながる勉強会やシンポ、会見に記者が行かなくなった。そうした現場を面白がらなくなったのだ。

 そんな有様のテレビ報道は一体どうなるのか? 長いこと取材現場に居続けた一人として、強く憂えている。社会で起きている様々な問題や現実。それらをきちんと取材しているのだろうか? もちろん、あらゆることをカバーできないにしても、せめて気持ちの上では「取材しよう」という思いを、記者たちは持ち続けているのだろうか?

 労働時間を抑制しなければならない勤務管理上の「時間」の制約か。取材費を減らしたい「カネ」の制約か。それとも本人の「意欲」の問題なのか。とにかく私生活を削ってでも、現場で人から話を聞く。そんな記者が圧倒的に少なくなってしまった。

 「テレビの報道って、本当に大丈夫? これじゃテレビの時代、本当に終わっちゃうよ」

 市民メディアとしてインターネットで映像を配信している白石草さんから先日そう言われた。1月14〜15日に横浜で開かれた「脱原発世界会議」のことを話題にした時だった。彼女が主宰する市民メディア「Our Planet-TV」(通称・アワプラ)が15カ所のフロアからインターネット中継した。

 この会議はNGOピースボートが事務局となり、チェルノブイリ原発事故の関係者のほか、福島第一原発事故で影響を受けた自治体の首長、ドイツの脱原発運動家、放射線被害と闘う各国の医師、内外の関係者や原発事故の被害住民など1万1千人あまりが集まった、過去最大規模の脱原発イベントだった。会場では、放射能や脱原発をめぐる各国や日本各地の動きが報告され、熱気を帯びていた。

 しかし現場に取材に行ったテレビの記者はごくわずかだった。特に民放のニュースカメラは数えるほどしかなく、記者が皆無のテレビ局もあった。

 それぞれのメディアが取材した末に今後の方向を「脱・原発」とみるか「親・原発」と捉えるかは自由だ。しかし報道人として、世の中で起きている「潮流」を見ておかなくて、把握しておかなくて、大丈夫なのか。報道機関として最低限の公共性を果たせるのか。かつてキー局の報道現場にいた白石さんの問いは、そこに向けられていた。

 現場のテレビ記者たち。特に20代、30代の本来ならギラギラと獲物を追うごとく、貪欲に人と会って引き出しを増やすことに専念して良い世代の記者たちが、とにかく現場に行こうとしない。特に「テレビ局の社員」である記者に目立つ。

 このところ脱原発を訴えるシンポ、勉強会、記者会見、デモなどや、逆に放射能不安を払拭しようと解説するイベントなどが頻繁に行われている。そういう催しは、原発事故で影響を受けた当事者やその支援に動いている支援者や活動家、専門の学者など様々な人たちに出会える数少ないチャンスだ。そのはずなのに、見渡すと記者がいない。特にテレビは……。関係者を見つけたと思ったら、テレビ局社員ではない。なんらかの番組の専属になっている派遣社員のディレクターだったりする。

●分業とリスク回避で強まる取材現場の保守化・保身化

 この状況はなぜなのか?

 一つは、ニュースとしてその日に放送されないものは取材にも行かない、という傾向が強まっているせいだろう。時間外労働をさせない風潮。目先ばかりを見る成果主義。カメラマン発注などの効率性の追求。いずれも現場の余裕のなさの表れだ。

 もう一つは、取材現場=若手のテレビ局社員または下請けの派遣社員、指示を出すプロデューサー・デスク=中堅テレビ局社員というすみ分けが進み、現場を見ない中堅社員による取材の取捨選択が「予め机上で進む」傾向だ。

 さらに言うと、こうした決定権のある中堅社員たちには「社会活動系」「市民運動系」イベントに対する抵抗感を持つ人が少なくない。一方、盛んにツイッターなどで情報を発信している運動側には従来型のマスコミへの不信も強い。マスコミと運動側の人たちとの意識的な距離は広がったままだ。

 マスコミ側からすると、今日、頻繁に起きる報道をめぐる不祥事の数々で、コンプライアンスの遵守を強く言われる職場環境も影響しているだろう。記者たちが覚えた教訓のなかに、危ないものには手を出さない、危ない人とはつきあわない、という面があるようにも感じる。

 結果として、報道現場が保守化する。ここで言う保守とは政治思想としての保守という意味ではない。文字通り「守り」に入るという意味で、新しいものには消極的、従来型の報道スタイルや姿勢を踏襲するという意味での保守だ。保身化、サラリーマン化と言い換えても良い。

 市民団体主催の小さなイベントだとめったに取材しないテレビほどではないが、新聞でも同様の傾向にあるらしい。

 朝日新聞は、1月19日の「社説 余滴」で国際社説担当の脇阪紀行論説委員が「脱原発と時代のうねり」という記事で、やはり脱原発世界会議の様子について触れている。主催者の記者会見で「多くの人は会議のことをインターネットで知ったのではないか」という発言を引いて、(主催者の会見では)「大手メディアがほとんど報じなかったことへの不満が感じ取れた。本紙は15日の朝刊で、福島県から避難した子どもの声を中心に開幕を伝えたが、紙幅には限りがある。(中略)時代の節目だ。こうした草の根の動きにもっと目を凝らしていきたいと思う」と結んでいる。反省をにじませたこの筆者を含めて朝日新聞からは、私の知る限りでも4人の記者が取材に行っていた。

 実際に取材に行った朝日新聞の若手記者は「勉強になった。今まで会えなかった人とも会えた。すぐニュースにならなくともいつか書くための材料をたくさんもらった」と話していた。ちなみに彼は特集ルポを担当する「特別報道センター」の記者だった。実はそのことは意味を持っているように感じる。こういう会議は頻繁に顔を出す私自身もテレビ局のドキュメンタリー担当で、ストレートニュースの担当ではない。

 彼や私のように長いスパンの報道を担う記者にとって、この種の勉強会は、問題の「背景」や「構造」を学ぶための大きなチャンスだが、ストレートニュースの記者にとっても同じはずだ。テレビならドキュメンタリーを、新聞ならルポを取材することで記者たちが変化し成長していくのを私は傍らで見てきた。

 こうした世界会議さえ多くの記者が取材に来ない状況は「ジャーナリズムの将来を危うくする」と感じる。特別報道センターの記者も同じ意見だった。だが、このように感じるのは、自分でドキュメンタリーを制作したり、ルポ記事を書いたりし、問題の「背景」や「構造」を探ろうとしてきた人間たちなのだ。自ら「ジャーナリスト」という自覚のある人間と言い換えられるかもしれない。

 朝日・脇阪論説委員の言う「紙幅」は、テレビだと「放送枠」になる。ベタ記事だとしても新聞ならかろうじて記事に入るが、地上波のテレビだと30秒のニュースに入れることはかなり高いハードルがある。

 世界会議が行われた土日は平日に比べてニュース枠がごく少ない。加えて土日はカメラスタッフの数には限りがある。だからネグられたのだろうという想像は容易につく。しかも、要人の発言一つで必ずニュースになる政府系イベントではなく、記者からすればよく分からない非政府組織。行ってみてネタがなく空振りに終わる可能性を考えると、他のニュースを、と考えたとしても無理はない。

 本社や記者クラブ詰めの多くの記者は、原発事故で信頼を失ったとはいえ今も「権威」を信頼する傾向は根強い。また、少なくともニュース報道に関しては、政策決定に直結する権力・権威の側をカバーする方が仕事の効率が良い。

●「権威」を重視しながら、「権威」の取材も不十分

 それでは原子力委員会など正統派の「権威」を記者たちは細かく取材しているのだろうか?

 現在、こうした国家中枢の機関の会合でも、福島第一原発事故などの反省からいわゆる脱原発派や市民運動系の人たちなど従来は排除されていた人もメンバーとなり、突っ込んだ議論を展開している。一例を挙げると、原子力委員会の新大綱策定会議。最近、ここでも興味深いやりとりが行われている。

 1月18日の第11回新大綱策定会議。核燃料サイクルがテーマになった。委員の一人、金子勝慶應大教授は「企業会計を見る限り、(六ヶ所村の再処理工場を運営する)日本原燃は膨大な負債を抱え、しかも東京電力が破綻すると日本原燃も破綻する関係。原発が止まっても止まらなくても事業継続性はない」と発言。

 1月26日の会合でも、日本原燃再処理工場内にある高レベル放射性廃棄物を一時的に保管する施設について、青森県の三村申吾知事(原子力発電関係団体協議会会長)が「青森を最終処分場にはしない約束がある」と発言。金子教授も「最終処分を青森県が嫌だとはっきり言っている。他の県に受け入れてもらうことも現実的でない」と発言し、同意する声が相次いだ。

 しかし、テレビではこの会議については初回を除いて報じられず、全国ニュースで見た記憶がほとんどない。新聞でもベタ記事ばかり。議論の中身はめったに報道されず、回によって記者を出さない東京キー局もある(青森県だけは、知事がメンバーになっているので県政記者が会議を取材し、毎回、地方のニュースにはなっている)。

 国の原子力政策の根幹が議論されているこの会議に関しても扱いのほどはこの有様なのだ。

●報道されない事実の数々 ジャーナリストとは何か

 私自身が最近、ドキュメンタリーで取材したテーマを振り返ると、福島県における除染の問題も同じだった。

 テレビニュースでは政府や環境省が政策を打ち出した時には内容が報道されるが、では、実際に除染の現場ではどうなっているのかという検証はほとんどされてない。

 南相馬市のある私立幼稚園では、古い屋根にセシウムが吸着したらしく、自治体が負担した高圧洗浄でも放射線量があまり下がらなかった。専門の大学教授が「屋根は張り替えた方が良い」と忠告したものの、百万円単位でかかる費用が行政からは出て来ない。環境省も「建物は高圧洗浄でというのが国のメニューだ」というだけ。結局、幼稚園は屋根を自己負担で張り替えるかどうかの選択を迫られ、当面はそのまま放置することになった。屋根の下は遊戯室。園児たちが遊ぶ部屋である。そのことの深刻さについては皆が口をつぐんだままだ。

 ちょっと取材すれば、ちょっと足を使って現場を歩いてさえみれば、すぐ行き当たるこうした数々の矛盾。現場で話を聞くだけで分かる事実なのに、残念ながら全国ニュースでこの種の問題を目にすることはほとんどない。いったい、誰の、何の、せいなのだろうか。

 たまたま原子力の事例を出したが、他の分野でもまったく同様だ。テレビや新聞といった巨大メディアは、国民生活で起きているリアルな事実を逐一報道していく努力を放棄しているのではないか。草の根の活動や地域で切実に感じている問題には関心が薄く、誰に何を伝える目的なのかが明確でない。巨大メディアは災害時における生中継の報道など即時性を要求される場合を除いては、恐竜のように滅びゆく運命なのかもしれない。

 特にテレビ報道だ。いったい10年先、20年先はどうなっているのだろう。「テレビ記者」を長く続けてきた身として、この仕事から離れる前にこれだけは言い残しておきたい。

 記者たちよ、取材を業とする者よ。億劫(おっくう)がらずに現場に出てみよう。なにがしかの新たな出会いがあるはずだ。そこには伝えるべき事実がきっと存在する。感動のシーンだってたまにはある。自分こそが伝えなければならないという使命感は職業人としての喜び、そして人生の充実にもつながるものだ。自分の足で歩いて、自分の目で見て、積極的にドキュメンタリーを作ろう。自分の耳で聞いた事実を積み重ねて、ルポを書こう。それはワクワクして心が躍る本当に楽しい仕事だ。

 もし、そんなこと、やめておこうと、と心の中でささやくようになったなら。現場には行かなくていい、と感じるようになったなら……。「記者」という看板を掲げるのはもうやめておいた方がよい。君は、もはやジャーナリストではない。

 最後に、もう一度だけ問う。

「ジャーナリストですか?」

「現場に行っていますか?」

「仕事でワクワクしますか?」

(「ジャーナリズム」12年3月号掲載)
  

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