B29 体当たり事件(1945/5/29)

今年は戦争が終わって60年、戦争について書いたものを、少しずつ紹介する。今回は、B29に体当たりした朝鮮人・日本兵のことについて紹介したい。
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1944年6月、中国から飛び立ったB29が北九州八幡製鉄所を爆撃、本格的な空襲が始まった。11月にはマリアナ諸島を基地とするB29により、航空機工場などが高々度から爆撃されるようになった。高度一万㍍を飛行するB29には日本軍の対空砲火は届かず、まさに日本はB29の攻撃にたいしては全く無防備という状況であった。
 当初アメリカ軍は重要軍事関連施設を攻撃したが、中途から都市への無差別焼夷弾爆撃に変更し、東京、大阪はじめ大都市を破壊していった。1945年3月10日の東京大空襲では、死者8万3070人、焼け出された住民100万人と甚大な被害がでたが、その後も東京への空襲は続いた。
空襲は、しかし大都市だけではない。静岡県内でも浜松、静岡、沼津、清水、島田、下田などの都市が空襲を受け、大きな被害が出た。
 また戦争末期になると、艦載機による機銃掃射などが農村部でも行われた。農作業中、空襲により死去する人も出てきたため、食糧増産の任務をもつ農村の防空が課題になった。
空襲が全国各地に襲いかかっている時、事件は起きた。

 空襲は以上のように主に都市部に対して行われたが、大井川中流域が無関係であったわけではない。まずここはB29の「通り道」であった。マリアナ諸島を進発したB29は富士山をめがけて飛来、そして大井川上空で東西に飛び去っていく。大井川中流域上空に爆撃機が飛来したのは、11月5日であった。B24が白雲を引きながら西方へ飛び去っていった(東川根村国民学校『校務日誌』1944年度)。人々は、上空を飛行する米軍機の機影を不安をもって眺めた。しかし、飛来の頻度が高まるにつれ、住民は徐々に「慣れっこ」になっていった。
 1945年5月29日、B29の大編隊(前記『校務日誌』には、「B29、500機、P51、100機」と記されている)が大井川中流域の上空を通過している時、事件は起こった。

 午前9時頃空襲警報が発令され、その後10機ほどの編隊を組んだ「巨大な」B29が、幾編隊も幾編隊も、大きな爆音をたてながら通り過ぎていた。午前10時頃、B29の編隊に向けて一機の日本軍機が現れ、全速力で「体当たり」攻撃を敢行した。B29は空中分解しながら落下、日本軍機も墜落していった。その後に落下傘が3個空中に舞った(しかし1個は開かなかった)。
その様子を見上げていた人々は、ある者は思わず「万歳!」と叫び、ある者は手をたたいた。「感激」が人々の心を覆った。その後、戦闘が行われた空は、何事もなかったように広がっていた。

 しかし、このような体当たり攻撃を以てしても戦局を変えることは不可能であった。主要都市のみならず、都市という都市は灰燼に帰しつつあり、日本の航空戦力にはそれを防ぐ力はなかった。もはや敗戦は必至であったのである。

体当たり攻撃を行った日本軍機は、清洲飛行場(愛知県)を基地とする飛行第五戦隊(第15310部隊)所属の「屠龍」(キー45・二式複座戦闘機)で、午前8時頃基地を発進、哨戒中にB29の大編隊を発見して攻撃を行ったのである。
 
 「屠竜」は川崎航空機によって設計・製造され、1942年に制式採用となった複座戦闘機(乗員2名)で、全長11㍍、全幅15・02㍍、出力1080馬力のエンジン(ハー102)を2台搭載していた。航続距離約2000㌔㍍、最大速度は時速約540㌔㍍であった。
飛行第五戦隊(天鷲第15310部隊)は、当初東南アジアに展開していたが、1944年(昭和19)8月から本土防空に任じられ、主に中部地区の防衛に当たっていた。5月29日、この日榛原町上空でもB29に対する攻撃が行われ、攻撃中「屠竜」2機が墜落している。
墜落したB29は、第58航空団40爆撃群所属の一機(機体番号42-24594)で、横浜市街地の爆撃に向かう途上であった。無事通過したB29の大編隊は、横浜市に3200トンの焼夷弾を投下した。その結果、横浜市の三分の一が壊滅し、死者4616人、負傷者10400人が犠牲になり、約40万人が被災した。

  ところで、墜落したB29の機体は、田代、上岸、前山、小長井など約2㌔㍍四方に飛散し、東川根村で4戸、上川根村で1戸(千頭の旅館・清水館)が消失した(すべて現在の榛原郡本川根町域)。
 小長井地区にあった東川根村国民学校にも、奉安殿付近にエンジン、山羊小屋付近に焼夷弾が落下、また焼夷弾一発が音楽室の廊下付近に落下して火をふいたが、ちょうどその時、徳山村から来ていた徳谷神社参拝者らにより消し止められた。

  B29に体当たりして戦死した搭乗員は、河田清治少尉(22歳)と土山茂夫兵長(20歳)であった。土山兵長の遺体は、翌30日、本城山山頂付近の墜落機近くで発見され、31日火葬場で荼毘にふされた。31日夕刻、河田少尉の遺体も発見された。少尉はパラシュートで降下しようとしたが開かないまま落下して死亡した。遺体は6月1日荼毘にふされた。2日、2人の遺体は午前9時45分発の汽車で原隊に帰還していった。

  B29の乗員は全部で11名、その内9名の死体は墜落機内で発見された。5名は半焦げ、四名はショック死であった。動員された警防団、在郷軍人会の手によって、遺体は役場近くの小高い丘に鄭重に埋葬された(戦後米軍が調査に来、1945年12月、遺骨は引き取られていった)。パラシュートで落下した2名のうち、1名は役場近くで逮捕された。もう1名は平栗地区の山中に落下し、その付近で逮捕されたが、その際若干の撃ち合いがあった。逮捕された2名は防衛本部に連行された。戦死者をもつ村民が殴りかかろうとする事件が起きたため、2人は防空壕に保護された。連隊区司令官より、本土決戦の際には捕虜を国際法に則って処遇するよう言われていたからだという。
 捕虜2名はその日のうちに静岡憲兵隊金谷分隊に引き渡され、翌日名古屋の東海軍司令部に護送された(6月28日、2人の捕虜は処刑された)。

  後年、当時東川根村村長鈴木治平は、こう記している、「双方の飛行機を比較して見て、あまりにも格差のあるのには驚いた。B29の方は至れり尽くせりで、ゴムボート、釣り具、チューインガム、携帯食糧も沢山搭載しているのに、友軍機は甚だお粗末で、酸素吸入で上昇し体当たりしたらしく、余りにも装備の差を感じ、これでは勝つ事は出来ないと思った」と(鈴木治平『越えてきた山と川』)。
6月4日、B29の解体作業が始められた。13日には東川根国民学校奉安殿横からプロペラが掘り出され、27日には金属片の片づけが行われた。
また6月10日にも数百機のB29が通過、その時にも上空で空中戦が展開された。
 空襲警報の発令はその後も続いた。最後の警報は、8月14日であった。15日の敗戦まで、空襲の恐怖は人々を苦しめたのである(松下麟一編集・日米の英霊を追悼する会『大井川上空における散華』、徳山村国民学校『あの日の感激』、東川根村国民学校『校務日誌』を参照した)。

体当たり攻撃を行った2人の乗員について詳しく記しておこう。
 まず2人の戦功を記した「感状」(1945年6月18日付)を紹介する。
 「昭和20年5月29日米空軍の戦爆連合を以てする本土来襲に際し、河田少尉操縦土山兵長同乗して勇躍邀撃に出動し、御前崎北側地区に於てB29編隊を発見するや敢然攻撃遂にその編隊長機に対し体当たりを決行してこれを粉砕し両名また壮烈なる戦士を遂ぐ。河田少尉は資性温厚、責任観念旺盛にして内烈々たる闘魂を蔵し、土山兵長亦温厚寡黙にして奉公の精神に燃え、上下の信望極めて篤し。偶々敵の来襲に際し相携えて欣然出動悠久の大義に殉ぜるものにして帝国軍人の亀鑑たり仍て茲に感状を授与し全軍に布告す」
「感状」に見られるように、二人の青年は、誠実に、与えられた任務を遂行したと言えよう。
 土山兵長は京都府出身で1945年4月から飛行第五戦隊に配属されていた。陸軍航空通信学校出身である。土山の同年5月6日付けの妹に宛てた手紙には、「毎日乗る飛行機は双発(発動機二つ)の大きな飛行機だ。B29を一撃にするんだから高度も一万米(㍍)上る。一万米上空から下を見れば本当に地図を見る様だ。去る日敵の乗員が落下傘で数名降りたがみんな若い学生らしかったよ。見ても憎き顔をして居やがる。空気が薄くなるので酸素を吸う。相当に寒い。手足も涼しく寒くはない程度に冷える。然し面白い。飛行機と運命を共に出来るを幸いとしている。一度大空に上がれば再び生きて帰るとは思わない。毎日天国に昇る神のような神聖な気持ちだ。何もかも考えない。一事に専念する。」とある。

  河田少尉は、本名盧龍愚、朝鮮半島出身であった。河田清治という日本人名は、創氏改名によるものである。
 盧は京畿道出身、仁川商業学校を経て京城法科専門学校に進んだ。決して裕福ではなかったが、学校の成績がよかったため、将来の出世を期待して、祖母が学費を工面し進学させたという。
 京城法科専門学校の校長増田道義(東京帝国大学卒業、警視庁属兼警部、平壌地方専売局長、慶尚南道内務部長を歴任)は、1941年の就任以来、「皇民化教育」の模範校とすべく「徹底した皇国臣民教育」を行い、「入学試験においては皇国臣民としての至誠尽忠の精神がどのくらいあるのかということに主眼点」をおき(『国民文学』1942年5・6月号)、「本校に入学せんとする者は皆立派な帝国軍人になる固い決意の下に入っている。一たび命下れば欣然戦ひの庭に往き従容として国に殉ずる軍人としての素質は日ごろたゆまざる教育と訓練によって練りに練っている」(『京城日報』1943年11月2日付)と豪語する人物であった。
 在学中、盧は増田道義校長等に「日本精神及び剣道、銃剣術をたたきこまれ」、「国のため己を捨て無心となって敵を倒すことを体得し」(増田道義「太平洋戦争に殉じた朝鮮同胞」,『一億人の昭和史』毎日新聞社)、1943年7月に創設された陸軍特別操縦見習士官制度に志願した。同年10月大刀洗陸軍飛行学校群山教育隊に入校、44年3月卒業し更に迎撃戦闘機屠龍の訓練を受け、45年3月第五戦隊に配属となった。
 盧は、給与の一部を朝鮮半島の両親に送金していた。また特攻作戦について「飛行機の数が少ないのに、こんなばかな戦法があるか」と批判していたという(「朝鮮人兵、遺骨は帰らず」、『朝日新聞』2000年8月8日付)。
 そして5月29日を迎え、盧は還らぬ人となった。

死後、河田は大尉となったが、河田すなわち盧の遺骨は未だ遺族に返還されてはいない。遺骨は、東京目黒の祐天寺に「朝鮮半島出身者軍人軍属戦没者」と記された位牌のもと、他の1135人と共にある。
 植民地支配の下にあった当時の朝鮮。盧は「日本人として朝鮮民族を抑圧した大日本帝国の戦争に協力した」というのである。植民地支配は、決して軍事的、経済的支配だけではない。人間の精神に対する支配こそ植民地支配の根幹ともいえるものであり、だからこそ日本は「皇国民教育」を熱心に推進したのである。「戦争協力」は、決して盧龍愚の責任ではない。
 現在も未決の問題としてあり続けている植民地支配の問題が本当に解決される時、おそらく遺骨は祖国へと帰ることができるのであろう。しかし、それがいつであるのかは、今もって不明である。