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zoom RSS 【本】斎藤貴男『空疎な小皇帝』(ちくま文庫)

<<   作成日時 : 2006/08/18 22:01   >>

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 『戦後短編小説再発見』に「組織と個人」という巻がある。そのなかに、石原慎太郎の「院内」という作品があった。その最初の部分には、こうある。

 自分がいま何処に在ろうと関わりない意識の空洞が私の内にあり、私はその内に在る。無重力の空間で味わう存在に等しい、この意識の虚ろな浮遊を、最早私は味わいも苦しみも楽しみもせず、ある状況の圏を通過しやがて五官による自分への確認の可能な大気圏への回帰を待ち受ける宇宙飛行士のように、非現実的な時間と意識の経過をただじっと待っていたのだ。


 私には理解不能の文だ。このような文がこの後も続く。だから私は、他の短編は読んだが、これだけはやめた。なぜこのような作品を掲載したのか、私にはわからない。

 今日購入して、一気に『空疎な小皇帝』を読んで、よくわかった。この作品は、語彙は豊富に使っているが、内容的にはきわめて空疎なのであろう。語彙によって覆われているのは、空疎そのものなのだ。その空疎が権力を持つと、とんでもないことが起こる。

 さて、この本には、石原都知事の知事としての発言が各所に引用されている。とくに、「文庫版追記」に紹介されている、2006年2月に開かれた「三宅島帰島一周年 感謝の集い」での発言が凄い。人間的な感性を失った、場違いの、まさに三宅島に対する罵倒に近い内容を縷々述べているのだ。

 この本に記された石原都知事の言動をみると、彼には「公共」の精神がないようだ。まったく自分勝手である。公務で出張しても、ダイビングをしたり、アメリカに講演に行った際、増額した宿泊費を公費で支払わせたという。
 
 漫画家小林よしのりとの対談のなかで、小林はこう言っている(162頁)。

(石原の『弟』を)読んでいて刺激を受けたのは、選ばれた人間の個性というものがあって、その選ばれた人間は本当にまったく自由勝手にやってそれでいいんだっていう、その部分ですね


 小林は、肯定的にこれを紹介している。私は『弟』を読んではいないが、もしそういう内容なら、石原は自分の選民思想的な考えを、そこに記したのだろう。

 「自由勝手に」やるなかで、都庁も、都議会も、そしてマスメディアも、それを批判するのではなく、その「自由勝手」を支えるものに転化しているようだ。

 威勢のいい、暴力的な、反人権的な言説が、声高に叫ばれれば叫ばれるほど、それに追従していく者が増えてきている。その言説は空疎であっても、権力をバックに声高に主張すれば、人々がついていく、そういう時代に入ったようだ。東京都に、その典型が現れてきている。

 私は、考え方が異なっても、冷静に議論することを好む。考え方が異なるのは当たり前だ。しかし議論する民主的なルールを尊重せずに、自らの意思を押しつけていくのは、それはファシズムである。そういう時代になるのだろうか。

 開高健の小説、「パニック」を想起する。しかし、その結末は無惨であった。


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